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境内のご案内

主祭神

須佐之男命
すさのおのみこと

宇迦能御魂神
うかのみたまのみこと

二柱の主祭神を中心に祀り、世に天王様として親しまれ、御祭礼は四谷の「天王祭り」また「かっぱ祭り」として有名でありました。
稲荷大神は五穀豊穣・開運招福・商売繁盛の神様として、須賀大神は暦神として、また土木建築・悪霊退散・諸難・疫病除けの神として古くより庶民の信仰を集め、霊験あらたかであったと伝えられています。

主祭神の左右には櫛稲姫を始め八柱の御子を祀っています
五男神 : 天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・熊野樟日命・活津彦根命
三女神 : 多紀理姫命・市杵島姫命・多岐都姫命


合殿

大鳥神社
○御祭神 : 日本武命(やまとたけるのみこと)・大鳥連祖神
○例祭 : 11月(酉の市)


末社 大国社(大国主命 おおくにぬしのみこと)

ご内陣 ●ご内陣
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いわれ

 今の須賀神社はもと稲荷神社でした。その稲荷神社は、往古より、今の赤坂、一ツ木村の鎮守で、清水谷に有ったのを、後寛永十一年に江戸城外堀普請のため、当地(現在地)を替地として拝領し、移し奉ったものと伝えられています。

 須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年、島原の乱に日本橋大伝馬町の大名主馬込勘由と言う人が、幕府の命に依り、兵站伝馬のご用を勤め、その功績に依り、現在の四谷の中心一円の地を拝領したのを機会に、寛永二十年、神田明神社内に祀ってありました日本橋伝馬町の守護神(須佐之男命)を地元民の総発意で四谷に合祀し、御両社として祀る様になり、俗称四谷天王社と云い、明治維新まで親しまれて来ました。明治元年に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戦後は制度の改正により、旧社格は撤廃されました。

社殿 ●社殿
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 社名の須賀とは、須佐之男命が出雲の国の簸の川上に八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り給いて、宮居を占め給いし故事 に基づき名付けられた名称です。

 往古の御社殿はつまびらかではありますが、戦災前の御社殿は、文化十一年八月に起工し、十五年の歳月をついやして文政十一年十二月に竣工したものです。大正十二年九月一日の関東大震災めでは江戸名所図会に描かれたままの姿でありました。昭和二十年五月二十四年の東京大空襲の折り、御本殿並びに御内陣と境内摂社を残した外一切の建物を失いましたが、戦後、氏子崇拝者の赤誠(せきせい)に依って 今日の復興を見ることが出来ました。

 当社の本殿御内陣は文政二年に造営されたものでありますが、先の戦災の折り、辛うじて焼失を免れたものの極度に老朽化が進み、この儘では保存に支障をきたすとして、この度その大修復工事が行われ、昭和六十三年秋に着工、平成元年五月九日に落成し、同月十八日に遷座祭が執行されました。

 今では都内の神社中数少ない金色燦然と輝き、荘厳華麗を極めた建築物であります。造営以来約百七十年目の大修復工事がなされました。 

御内陣宮殿 文政二已卯年四月四谷伝馬町二丁目住人 大工 吉見氏




須佐之男命

須佐之男命 すさのおのみこと

 国生み神話でよく知られている伊弉諾尊(いざなきのみこと)が、妻である伊弉冉尊(いざなみのみこと)にお会いになるために、黄泉の国に行かれたのち、日向の橘の小門の阿波岐原で禊をなされた際にお生まれになった須佐之男命(すさのおのみこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つきよみのみこと)とともに三貴子といわれる神々のうちのお一人で、日本神話の主役として重要な役割をになう神様です。強く激しいご気性ながら、純真で強い愛情をもったご性格で、農神・疫神として全国的に広く信仰されています。

 須佐之男命は、荒魂神として疫病・厄除けのご神威はやく、水を支配する八岐の大蛇を退治されたり、その時お救いになった櫛稲田姫(くしいなだひめ)と結婚なされて、稲の神様である大歳神(おおとしのかみ)をお産みになるなど、水をつかさどる農耕の神様であり、人々のために植樹の大業をなされた山林の神様でもあります。

 さらに、わが国で初めての和歌と伝えられる八雲立つ出雲八重垣つま籠みに 八重垣つくるその八重垣をという歌をお創りになったことから、「和歌の神様」と崇められ、学業成就の神様としてもよく知られています。

 このように速素盞嗚尊は、文武・政治・土地の守護開発・航海など、人々に資源を授けたまう大地の恵みの神様、お祓いの神様として、特に地鎮祭(地祭)、方災除け、厄除け、疫病除け、家屋敷のご守護に霊験あらたかとされています。

本社神輿 ●本社神輿
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三十六歌仙

三十六歌仙繪 さんじゅうろっかせんえ

天保七年に画かれたこの三十六歌仙は戦時中、御内陣金庫の中に納められていたために災火を免がれ、現在当社の社宝として残っています。三十六歌仙繪は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を見ました。

画工は四谷南蘋(なんびん)と称された高芙蓉の高弟、大岡雲峰(当時七十三歳)(天保七年)の作、文晃時代の画家で歌は千種有功郷の書であります。

千種有功郷は千々酒舎と号し、正三位 中納言で、和歌は藤原忠良、有栖川熾仁親王、久世通理等に学び、また景樹秀鷹と交わり、一種の風を詠じたる人といわれ、大岡雲峰は旗本で四谷大番町(現大京町)に移住し、公郷に交友多く、 当図は衣冠の考証が正確であるといわれています。

御本殿内、格天井には、同じ雲峰の草花の図 が描かれています。これは天保十四年癸卯十一月冬至後吉日と記され、時歳八十の作であります。その他多くの当社の社宝は戦災に依って御社殿と共に焼失しました。

三十六歌仙の額 ●三十六歌仙繪
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写真左から

柿本人麿
かきのもとのひとまろ

ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島がくれ行く舟をしぞ思ふ
紀貫之
きのつらゆき

掬ぶ手の 雫に濁る山の井の あかでも人に別れぬるかな
凡河内躬恒
おおしこうちのみつね

住の江の 松を秋風吹くからに こうちそふるおきつ白波
伊勢
いせ

三輪の山 いかにまち見む年ふとも たづぬる人もあらじとおもへば
大伴家持
おおとものやかもち

まきもくの 檜原もいまだ曇らねば 小松が原に泡雪ぞ降る
山辺赤人
やまのべのあかひと

わかの浦に 潮みちくれば潟をなみ 葦辺をさしてたづ鳴きわたる
在原業平
ありわらのなりひら

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして
僧正遍昭
そうじょうへんじょう

いそのかみ 布留の山辺の桜花 植ゑけむ時を知る人ぞなき